2006年02月03日

子飼沢での体験談

sato.jpg


今日は住田町の子飼沢の佐藤としおさんのおふくろさんに貴重な昔話をしてもらいました。

佐藤さんが嫁にきて間もない頃、家になれていないためかよく寝れず夜中にオシッコにおきたそうです。

しかし、周りに家も少なく月明かりもないのであたりは真っ暗、佐藤さんはとても怖かったので外の厠に行くのをやめようかと思ったそうですが我慢できそうにないので思い切って外に出たそうです。

すると、向の山の方から「ギャーッ!ギャーッ!」っと狐の鳴く声が・・・。


そして、聞こえたなと思っていると目の前に青白い提灯が一つ・・・二つ・・・三つ・・・とどんどん灯っていき、ついにはその提灯がずら〜っと灯る行列が出来たそうです。

佐藤さんは驚きおっかなく(怖く)なってしまい、その日を境に夜中に厠には起きられなくなったそうです。

このおばあちゃんは今年で83歳になるそうですが、20歳で嫁にきたときの話しだそうですので、63年前の実体験となります。

これはおそらく『狐の嫁入り』の現場に佐藤さんが出くわしたのではないかと想像し、大和魂は一人で勝手に興奮していたのでした〜\(´_ゝ`)/

posted by 大和魂 at 14:47| 岩手 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 住田の昔かだり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

六平どんの粟(あわ)の木

中沢下 菊池利夫・ヒデノ



昔々、気仙郡猪川村に稲荷沢という長者があったそうじゃ。

ある日、長者の旦那様が言った。

「これこれ平六どんや、今日は天気も良いから後ろの畑に粟(あわ)を播けや」(^0^)

平六は「は〜い」(・0・) っと旦那様の言うことを聞き、畑さいって「どっこいしょ」と腰を下ろして一休みして「よっこらしょっ」と立ち上がり「うんとこしょ、うんとこしょ」と畑を作り、粟種を手に持ってパラパラと播いたそうじゃ。

その年の秋になり、粟刈りの季節がきて、ある日のこと・・・

旦那様「六平や、今日は晴れの天気だから、粟刈りにいってこい」

平六「は〜い」(・0・)

っと返事をして、大きな鋸(ノコギリ)と鉞(マサカリ)を袋で背負って畑に出かけたそうじゃ。

『へっ?粟刈りにノコギリとマサカリ?』(−△−;)っと不思議に思った旦那様は平六どんの後をついていったそうな。

すると、平六どんはノコギリをおろし、粟をマサカリで切り、ノコギリを出して粟の根本にあてて「ジコリン〜ジコリン〜」と切り始めたそうじゃ。

旦那様が (@□@;)「だってぃやあなっ!平六どんが粟をノコギリで切っとるが!!」っとぶったまげているうちに、バリバリじどんっ!っと粟が倒れた。

側にいた旦那様はその粟が倒れたあおりで「アァ〜レェ〜!!」(>□<)
っと江刺郡の祥法寺の屋根の上に飛ばされたそうじゃ。

それを祥法寺の和尚さんが見つけ ハッ!!(@□@;)

「だってぃやぁなっ!こりゃこりゃ大変なことが出来た!」
と騒いだので、和尚様みんなで出てきた。

そして、大風呂敷をひろげて力一杯握り、

屋根の上の長者の旦那に「この風呂敷の真ん中に飛び降りてこ〜い!!」
と言ったんだと。

すると旦那様はポーンッと飛び降りた。

飛び降りて、見事に風呂敷の真ん中に落ちたが、

風呂敷をもっていた和尚様達の額がゴチ〜ンッ!! ((>□<)(>□<))

っとぶつかり、額から火が出て祥法寺が焼けてしまったそうじゃ。

その時の火事で、お寺の大切な(ぶんぶく)茶釜のフタがなくたったんだそうじゃ。

どんとはらい m(−−)m

※文中に出てきた「だってぃやぁなっ!」とは、今で言う「えっマジで?ありえねぇ!」という驚きの気持ちを一言で発した時に出る気仙の方言です。
posted by 大和魂 at 14:43| 岩手 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 住田の昔かだり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

塔の観音

〜気仙三十三観音、第十三番目の札所〜    愛宕 根来 功範

 昔々のことです。時は永禄七年とは440年前に当たる室町末期で、このころ、矢作村豪族鶴ヶ崎城主矢作因幡守の娘が、気仙領旗頭であった米ヶ崎城主千葉安房守に嫁ぐ日が近づいたので、毎日場内の腰元たちは娘の輿入れの支度に忙しく働いていました。
 吉日を選びいよいよ嫁ぐ日となり、多くの家臣達は矢作城より米ヶ崎城に向かって長い行列が続く。婚礼の式も滞りなく終わって、矢作から来た家臣や腰元たちは姫と別れて帰城していったので、一人残された姫は、勝手を知らないお城の中で、ただうろうろばかりしていた。
 両親や腰元と引き離された姫には、ただ波の音が聞こえるばかり。矢作のことのみ思いつつ、悲しみは去らず、こうして数ヶ月が過ぎ、とうとう床に伏して起きあがることも出来ず、次第に衰弱するばかりとなった。
 場内の家臣たちは奥方の病気平癒のため、神や仏よと四方に祈願に廻ったのに、その医薬も効果がなく、ますます弱り果て米ヶ崎城は暗雲に包まれてゆくばかり。
 ある夜のこと、千葉安房守の枕下に白髪の老人が現れて、「汝に申す。輿入れ来た姫は宿世の業病のため治し難し、されど汝等城中の者共の信心強く、この度は癒してやらん。吾は塔の観音なり、夢忘れまいぞ。」と告げるや、姿煙のごとく消え去った。
 安房守は驚き、流れ出る汗を拭きながら家臣たちに白髪の老人を探させるも、夜は白々と明け、とうとう見つけることができませんでした。
 それから夫人の病気は不思議にも次第に快方に向かって、普通の体となって歩くことがで、城内の人々はホッと胸をなで下ろしていると、夫人は不思議な出来事を聞き、「塔の観音とは何処ぞ」と、家臣たちを四方に遣わして探させるも、誰もわからず帰城するばかり。
 それではと、安房守夫人自ら腰元を連れ、気仙川上流に向かって歩みを進めていると、世田米川向に小さな祠があり、十一面観音が安置されているのを見た。夫人は「夢に現れた塔の観音とは此処ぞ」と御礼参りをして、くる城して安房守に伝え、立派な御堂を建てさせたのでした。
 その後、村人たちは安産祈願、幼児の健康を願うため、赤い枕をつくって堂に奉納する風習は今に続いています。
 慶長七年は400年ぐらい前ですが、御堂は野火のため、観音様だけ残して消失したので、今泉の金剛寺宥鏡法印は、気仙川筋の村々から寄付を貰い再建、入仏式を行って十一面観音をもと通り安置したと記録に残っている。
 その後、約70年たった享保三年春のこと、高田村の佐々木三郎左右衛門知則という武士は、父母の供養のため、気仙郡内の観音堂の巡礼に出て、気仙三十三観音札所を定めるため、杖を頼りに気仙川をのぼり、横田村平栗観音堂を十二番目札所とし、次には向堂塔の観音に来て和歌を詠み、板に書き御堂に打った。
 曰く「極楽にわれを迎えの観世音、つかいおがまぬ人はあるまじ」と。
そして、気仙三十三観音第十三番札所と定められたのは今から二九〇年前になります。

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posted by 大和魂 at 14:40| 岩手 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 住田の昔かだり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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